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こんにちは。
前回の記事で、竹林院へのアクセスと「700円の小銭問題(&葛もちアイス)」について熱く語りました。
(まだ読んでいない方は、まずはこちらで小銭の準備を!「……しかし、その不便さを乗り越えた先には、かつて天下人が求めて止まなかった『異次元の静寂』が待っていました。」)
今回は、そんな現代的な苦労(?)をしてでも見るべき、この庭園の「真の価値」についてお話しします。
なぜ、ここは「大和三庭園」と呼ばれるのか。
そして、天下を統一した豊臣秀吉は、なぜこの場所を選んだのか。
静寂に包まれた庭を歩くと、700年前の「天才たち」が仕掛けた、究極の癒やしのトリックが見えてきました。
🍵 茶聖・千利休が仕掛けた「借景」のマジック
竹林院の庭園「群芳園(ぐんぽうえん)」。
この庭を作庭(改修)したと言われているのが、あの千利休です。
一見すると、美しい池と木々があるだけの庭に見えるかもしれません。
しかし、縁側に座って少し目線を上げてみてください。

庭の木々の向こうに、吉野の山並みが見えませんか?
これこそが利休の得意技、「借景(しゃっけい)」です。
遠くの自然(山)を、あたかも自分の庭の一部であるかのように取り込む手法。
これにより、限られた敷地が無限の広がりを持って感じられるのです。
「人工の庭」と「大自然」の境目を消す。
この計算され尽くした空間だからこそ、私たちは無意識のうちに心が開放され、深い静寂を感じることができるのです。
【専門家分析】
千利休がこの庭に施したのは、単なる装飾ではなく『視界の拡張』です。
近景の池、中景の木々、そして遠景の吉野山。この三段階の奥行きを計算し、縁側からの視線を1点に集めることで、狭い庭園を広大な曼荼羅のように見せています。
これこそが茶聖が提唱した『都市の山居(としのさんきょ)』の究極形です。
🌸 秀吉の「狂騒」と「静寂」の対比
文禄3年(1594年)。
豊臣秀吉は、徳川家康や伊達政宗らを引き連れ、総勢5,000人という桁外れの規模で「吉野の花見」を行いました。
その際、秀吉が宿舎としたのが、ここ竹林院です。
「昼は豪華絢爛な宴を。
夜は利休の庭で、ただ静かにお茶を。」
5,000人を動かす天下人のプレッシャーは、計り知れません。
昼間のドンチャン騒ぎとは対照的に、秀吉が本当に求めていたのは、この庭で過ごす「誰にも邪魔されない静かな時間」だったのではないでしょうか。
現在、私たちがこの庭で感じる静けさは、かつて天下人が最も欲した「究極の贅沢」そのものなのです。
🤴 聖徳太子から続く「椿山」の歴史
実は、竹林院の歴史は秀吉よりもっと古く、飛鳥時代にまで遡ります。
開創はなんと聖徳太子。
かつては「椿山寺(ちんざんじ)」と呼ばれていました。
その名の通り、今でも庭園には多くの椿(ツバキ)が植えられています。

春は桜、冬は椿。
1000年以上前から、ここは花と緑を愛する人々の聖地でした。
歴史の重層感が、この場所の「格」を高めています。
🍁 滋賀にもある「聖徳太子の庭」
竹林院と同じく「聖徳太子が創建」し、壮大な景色を庭に取り込んだ場所。
お隣の滋賀県・湖東三山の一つ「百済寺(ひゃくさいじ)」をご存知ですか?
滋賀・釈迦山 百済寺(ひゃくさいじ)
ここも竹林院と同じく、聖徳太子の手による古刹。
鈴鹿の山々を借景にしたダイナミックな庭園は「天下遠望の名園」と呼ばれています。
吉野の静寂に感動したなら、百済寺の「石垣と紅葉の静寂」も間違いなく心に響くはずです。
まとめ 📜
千利休の計算と、豊臣秀吉の休息。
竹林院群芳園は、単に「きれいな庭」ではなく、歴史の巨人たちが心を預けた「癒やしの装置」でした。
700円(と葛もち代)で、天下人と同じ視点に立てる場所。
ぜひ現地では、写真を撮るだけでなく、縁側に座ってぼーっと山を眺めてみてください。
その瞬間、あなたは秀吉と同じ静寂の中にいます。


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