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こんにちは!
前回は、心臓破りの石段を登る覚悟についてお話ししました。
さて、歴史好きのあなたに質問です。
「織田信長」と聞いて、何を思い浮かべますか?
「比叡山焼き討ち」「神仏をも恐れぬ魔王」……。
既存の宗教勢力を徹底的に破壊したイメージが強いですよね。
しかし、そんな彼が、自らの居城・安土城の敷地内に、わざわざ立派な寺院を建立しました。
それが、ここ「総見寺(そうけんじ)」です。
「改心して仏教徒になったのか?」
いいえ、違います。信長の狙いは、もっと恐ろしく、壮大なものでした。
「この寺の本尊は、俺だ」
安土城天主が謎の炎で焼け落ちた後も、なぜか奇跡的に残り続けた三重塔と二王門。
それらは、信長が目指した「自己神格化」の野望を、今に伝える唯一の証人なのです。
この記事では、安土山に残る最大のミステリーに肉薄。
400年の時を超えて、石垣の隙間から聞こえてくる「覇王の叫び」に耳を澄ませてみませんか?🏯🔥👂
目次
🙏 本尊は仏様にあらず。「盆山」という名の石

通常、お寺の本尊といえば仏像ですが、信長時代の総見寺は違いました。
イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが本国へ送った報告書(『日本史』)には、驚くべき記述があります。
「信長は城内に寺を建て、『盆山(ぼんざん)』と呼ばれる石を安置し、これを御神体として礼拝させた」
信長は、家臣や領民に対し、「この石(=信長自身)を拝めば、現世利益があり、長生きし、病も治る」と布告したのです。
さらに、拝観日を定めて一般庶民にも参拝を強制しました。
「俺は神だ。俺を拝め」
総見寺は、仏教を守るための寺ではなく、信長という「生き神(現人神)」を祀るための宗教施設だったのです。とっても信長らしい考えですよね。
🏗️ 略奪か、統一か。他所から「引っこ抜かれた」国宝たち


現在、安土山の中腹に残る「三重塔」と「二王門」(ともに国指定重要文化財)。
これらは、信長が新しく作らせたものではありません。
実は、近江(滋賀県)国内の他の古寺から「強制的に移築(没収)」してきたものなのです。
- 三重塔: 甲賀市の長寿寺から移築。
- 二王門: 甲賀市の柏木神社(または関連寺院)から移築と言われる。
- 金剛力士像: これも甲賀から。
由緒ある寺から建物を奪い、自分の城に持ってくる。
これは単なるコレクションではありません。
「既存の宗教勢力よりも、俺の方が上だ」という、強烈なマウンティングであり、権力の誇示だったのです。
🔥 なぜ燃えなかった?天主焼失のミステリー
1582年、本能寺の変の後、安土城は炎に包まれました。
豪華絢爛な天主や本丸は灰燼に帰しましたが、不思議なことに、この総見寺の主要な建物(塔や門)は焼け残りました。
考えられる生存理由
- 場所の違い: 総見寺は天主から少し離れた、山の中腹~西側に位置していたため、延焼を免れた。
- 意図的な保存: 放火した者(明智光秀説、織田信雄説など諸説あります)が、寺院への放火をためらった、あるいは略奪のために残した?
理由は定かではありませんが、結果として、信長が「神になろうとした証拠」だけが、皮肉にも現代まで生き残ることになったのです。
⛩️ 総見寺(歴史編)深掘りデータ
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 建立年 | 天正年間(1576年頃〜) |
| 宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
| 現存遺構 | 三重塔(国重文)、二王門(国重文) ※本堂は江戸時代に再建されたもの(1854年焼失後) |
| 見どころ | 三重塔の中には本来仏像があるが、かつては信長の道具類が納められていたとも? |
【当ブログ独自評価】静寂度スコア
静寂度スコア:★★★★★ (4.8/5点)
【かってに歴史考察】
大手道の喧騒を離れ、三重塔の前に立つと、空気が変わります。
400年前の木造建築が放つ圧倒的な存在感。
ここには、天下人の「執念」が染み付いています。
静寂の中に、信長の低い笑い声が聞こえてきそうな……そんな迫力ある場所です。
まとめ 🗺️
旅の終わりに:夢の跡を歩く
いかがでしたか?
総見寺は、単なる古いお寺ではなく、織田信長という稀代の英雄の「最終目標(神)」が形になった場所でした。
石段を登る足の痛みとともに、その壮大な野望を噛み締めてください。
【最終チェック】
さあ、歴史ロマンでお腹いっぱいになった後は、実際のお腹も満たしましょう!
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戦国の夢の続きは、美味しい料理とともに。


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