【重要なお知らせ】この記事にはプロモーション(アフィリエイト)リンクが含まれています。

こんにちは!
前回ご紹介した、青岸寺のあの美しい「苔の庭」。
思わずため息が出るほどの絶景でしたよね。
でも、信じられますか?
この国指定の名勝庭園は、戦火によって消失したり、彦根城内楽々園を築く際に石を供出し消滅したりしたんです。
雑草は伸び放題、池は泥で埋まり、美しい石組みは土の中に隠れていた……。
かつての名庭は、完全にその輝きを失い、「死に体」だったのです。
目次
🌱 伝統を繋ぐ。「整えられた静寂」を守る住職の情熱
昭和9年に国の名勝に指定されたこの庭園。しかし、名園というものは、ただそこにあるだけでは維持できません。
繊細な「苔」は、少しの手入れの怠りで枯れてしまい、石組みも手入れをしなければすぐに周囲の自然に飲み込まれてしまいます。
現在の住職は、この歴史ある庭を「最高の状態で次世代に繋ぐ」ことに心血を注いでいます。毎日毎日、石の表情を確認し、苔の状態に気を配る。
「名勝という看板を守るのではなく、この静けさを愛してくれる人のために、石の声を聴く」
今、私たちが目にしているあの美しい緑の絶景は、偶然の産物ではありません。長い歴史と、それを現代で守り続ける「人の手」の積み重ねなのです。🌿🔨🔥
🌸 始まりは「ロック」な男。バサラ大名・佐々木道誉
この寺のルーツを語る上で、一人の「スーパースター」を避けては通れません。
南北朝時代、権威に縛られず、派手な衣装と振る舞いで世間を驚かせた「婆娑羅(バサラ)大名」こと、佐々木道誉(ささきどうよ/京極道誉)です。
彼はただの荒くれ者ではありません。
連歌や茶道を愛する、超一流の文化人でもありました。
そんな彼が「晩年を過ごすならここだ」と定めたのが、この米原の地。
つまり、青岸寺の庭には、「既成概念をぶっ壊す」という、とてつもなく熱いロックなDNAが刻まれているのです。
🔥 炎と泥に消えた楽園。そして訪れた「空白の時代」
しかし、歴史は残酷です。
戦乱の世で、寺は兵火に焼かれました。
さらに追い打ちをかけるように、彦根城内楽々園を築く際に石を供出し消滅しました。
かつて道誉が愛した庭園は、泥と土砂に埋もれ、見る影もなくなりました。
長い間、そこは「かつて寺だった場所」として、ただ雑草が生い茂るだけの裏山になり果てていたのです。
「もう、終わりか……」
誰もがそう思いました。一人の男が現れるまでは。
楽々園を築いた井伊家家臣の香取氏によって再築
実はこのお庭、彦根藩主・井伊家の大名庭園として名高い「楽々園(らくらくえん)」を築いた、井伊家家臣の香取氏(かとりし)の手によって再築されました。
当時の三世・興欣(こうきん)和尚が、自らの隠棲の地として選んだこの場所に、藩主お抱えの「美のプロフェッショナル」を招き入れたのです。
昭和9年には国の名勝にも指定されたその景観は、まさに格調高い「大名級」の仕上がり。鋭く力強い石組みと、静かに広がる杉苔の柔らかな緑。そのコントラストは、計算され尽くした香取氏の技が光る、まさに「生きた芸術作品」です。
⛩️ 青岸寺(米原)深掘りデータ
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 開基 | 佐々木道誉(京極道誉) |
| 庭園様式 | 池泉回遊式枯山水庭園(国指定名勝) |
| 見どころ | 雨上がりの苔 水分を含むと鮮やかな緑色になり、幻想的な世界を作り出します。 |
【当ブログ独自評価】静寂度スコア
静寂度スコア:★★★★★ (5/5点)
【歴史考察】
ここの静けさが特別なのは、そこに「人の温かみ」があるからでしょう。
放置された静けさではなく、毎日手入れされ、愛されている空間だけが持つ「整った静寂」。
座っているだけで心が洗われるのは、住職の想いに触れているからかもしれません。
まとめ 🗺️
旅の終わりに:明日への活力を貰う場所
いかがでしたか?
青岸寺庭園の美しさの裏には、壮絶な「復活の物語」がありました。
もしあなたが、仕事や人生で「もう無理かも」と思った時。
この庭を思い出してください。
「泥に埋もれても、磨けば必ず光る」
そう教えてくれる、滋賀県屈指のパワースポットです。
👑 米原エリアをさらに楽しむ!
心を満たした後は、お腹も満たしましょう!
米原駅周辺には、新幹線の待ち時間にサクッと食べられる名物グルメがあります。


コメント